スポーツで顎が疲れる…【前編】──見逃されがちな“顎の危険信号”
目次
顎の疲れ。見過ごされがちですが
日々の練習やトレーニング、試合で集中力を研ぎ澄ます緊張の連続…。そんな生活の中で、ふと「顎が痛い」「歯が痛い」と感じたり、「頭が痛い」「首や肩がだるい」「耳に違和感がある」などと感じたことはありませんか?
多くのスポーツ選手やフィットネス愛好者が、無意識のうちに顎の筋肉や関節を酷使しています。食いしばり、衝撃、筋緊張──それらの蓄積が、やがて「顎関節症(TMD:Temporomandibular Dysorde)」という疾患に進行するリスクがあるのです。

顎関節症は、実は顎だけでなく全身に影響を及ぼすことがあります。代表的なものに頭痛、肩こり、首のこり、耳鳴り、めまい、姿勢不良、睡眠の質の低下などがあり、これは顎関節と神経・筋肉が広範囲に連動しているためです。これらの不調は一見無関係に見えても、顎の不調が引き金になっている可能性があります。

一般的に、成人の最大咬合力は、男性で約500~700ニュートン(約50~70kgf)、女性で約300~500ニュートン(約30~50kgf)と報告されています。スポーツ時の食いしばりによって一時的にこれらの値を超えることは考えられますが、長年同じスポーツを続けている人やプロの選手ともなってくると、その負担は非常に大きなものとなってきます。
【出典】THE INFLUENCE OF GENDER AND…
スポーツ選手全般を対象としたTMDの研究では、一般の非アスリート群のTMD有病率が11.11%〜14.3%と言われている事に対し、アスリートのTMD有病率は17%から100%とも報告されており、明らかに高い傾向が示されています。また、一部の研究ではTMDが運動パフォーマンス低下の原因にもなり得ると示唆されているので、「たかが顎に違和感があるだけ」と侮ってはいけません。
【出典】Effects of Contact Sports on Temporomandibular…

本記事【前編】では、競技別に「顎の負担」がどのように生まれているのか、また顎関節症にどうつながっていくのかを見ていきます。
競技別「顎に負担がかかりやすい」スポーツの例
野球・ソフトボール:スイングや投球で咬筋に負担
野球のスイングやピッチングの瞬間、選手の多くは無意識にグッと奥歯を食いしばっています。この食いしばりは一時的に力を引き出すためには必要な動作ですが、一日に何十回、何百回と繰り返すことで顎の筋肉や関節に大きな負担になってきます。プロ野球選手やプロゴルファーが競技中に奥歯を咬み割ってしまうケースもあります。
またピッチャーで言うと、常に利き手側に偏った動きを続ける中で、肩や体幹のバランスが崩れてくると顎の筋肉のバランスも崩れ、顎の関節にも偏った負担をかけ始める事になります。
日常的に強度の高いプレーを続けている人ほど、食事中の顎の疲れや関節の違和感が表れやすい傾向があります。

【出典】Impact of sports on temporomandibular dysfunction…
陸上短距離:スタート時の全身緊張が顎にも波及
短距離走のスタートダッシュって、全身の筋肉を一気に爆発させるイメージがありますよね。実はそのとき顎の筋肉にもかなりの力が入っていて、関節に大きな負担がかかります。スタート前の緊張や集中の中で、呼吸を止めて無意識に歯を食いしばっているんですね。レースが終わったあとに「顎が重いな」「ちょっとだるいな」と感じたことがある人は、そういう負担のサインかもしれません。
顎の位置を正しく修正するマウスピースを使った実験では、マウスピースの有無で脚の筋力の向上が最大+12%も見られたという結果もあり、顎の安定が運動パフォーマンスに明確な影響がある事がわかります。

【出典】Strength improvements through occlusal splints?…
ボクシング・ラグビー・柔道:顎への打撃がリスクに
ボクシングやラグビー、柔道などのコンタクトスポーツで顎関節への直接的なダメージが非常に大きく、複数の研究でTMDの有病率は60%以上になると言われています。
タックルや受け身、打撃の衝撃が何度も続くと、関節内部にあるクッション(関節円板)がズレたり、靭帯が伸びたりといった損傷が起こるリスクが高まります。怪我直後は痛みや開けにくさが出ても、「そのうち治るだろう」と放っておいて、あとから慢性化するケースも。
マウスピースをつけていても、しっかりフィットしていないと予防効果は弱く、逆に顎に変な力がかかることもあるので注意が必要です。予防的なマウスピース装着や歯科的チェックの重要性は馬鹿に出来ません。

【出典】“Trauma-induced TMJ disorders”, Oral Surg Oral Med Oral Pathol
【出典】Effects of Contact Sports on Temporomandibular…
テニス・バドミントン:試合中の緊張と噛みしめ
ラリーが続く競技では、常に集中しながら細かい判断と動きが求められます。サーブやスマッシュの瞬間にはグッと息を止めて力を出すので、そのとき顎に大きな力がかかることも。
プレー中は交感神経が優位になりやすく、全身が緊張した状態になって、顎の筋肉も休む暇がありません。終わったあとに顎やこめかみがジンジンしたりするようなら、顎まわりの筋肉がかなり疲れているサインです。とくに速さとパワーが要求される現代のテニス・バドミントンでは、首から顎にかけての負担が昔よりも増えているとも言われています。
カナダのプロテニス選手ミロシュ・ラオニッチは、試合中の歯ぎしりや顎の緊張を軽減するためにマウスガードを使用しており、これにより頭痛の軽減や集中力の向上を実感していると述べています。

【出典】Oral Rehabil「Bruxism and TMD in athletes」

クライミング・ボルダリング:長時間の緊張による影響
壁を登るクライミングやボルダリングでは、全身をフルに使って緻密な動きを繰り返します。筋力・バランス・集中力を要する極限状態のスポーツで精神的ストレスも強いため、顎に対する悪影響も大きいと考えられています。
一般的に筋肉は、瞬間的なパワーを出す事は得意ですが、持続的に力を入れ続ける事は苦手です。歯の食いしばりは握力や筋出力の向上に関係することが一部研究で示されており、長時間のクライミングで握力の疲労がピークに達する時、「手を放すまい」と食いしばる顎の負担の大きさはかなりの物になります。
また、ストレスや緊張の連続によって歯を食いしばる習慣が強化されてしまう可能性があるという研究結果も出ていて、クライマーを対象にした統計では「朝、顎がだるい・痛む(46.7%)」「顎関節の音がする(31.1%)」「口が開けづらい(20%)」と言った数字が出ています。

【出典】スポーツ歯学研究「クライミングにおける咬合圧の研究」
【出典】Prevalence and risk factors for bruxism among climbers
サッカー・バスケットボール:接触・転倒時の顎打撲
サッカーやバスケのようにジャンプや接触プレーの多いスポーツでは外傷がつきものです。顎にも地味にダメージが溜まっていく事は明らかで、一般人と比べてTMDの症状を訴える選手の比率が高いという結果が出ています。
例えば、スペインのプロサッカーチーム「FCバルセロナ」の選手を対象にした研究では
「30%の選手が食いしばりの症状」を訴え、
「40%の選手が顎関節への直接的な外傷」を経験、
「23.3%の選手が歯冠破折」を、
「16.7%の選手がトレーニングや試合中に歯の痛み」を報告したそうです。
また、ラグビー選手の53.3%が顎関節症を持っていて、アメリカンフットボール選手の65%が顎関節の音、55%が食事の際の顎の痛みを訴えているという結果が出ています。
顎を痛めたり、歯を折ってしまったりというアクシデントはプレーの支障にもなる上、食事などの一般生活にも悪影響が出てしまいます。予防的にマウスピースの使用する事は、こういったアクシデントを防ぐ事に大きな意味があります。

【出典】Dental Traumatology「Oral injuries in soccer players」
【出典】Study of the effect of oral health on physical…
【出典】Prevalence of signs and symptoms of temporomandibular…
【出典】Prevalence of temporomandibular disorders in rugby players
筋トレ:MAX時の食いしばりが常態化
高重量を扱うトレーニーほど、力を出す際に奥歯を強く噛みしめる傾向があります。この習慣が慢性化すると、咬筋や側頭筋の疲労、顎の可動制限、開口障害、歯のすり減りを引き起こすリスクがあります。
ウェイトリフティングの選手を対象にした統計では、51.2%の選手が軽度のTMD症状を報告しているといて、頻繁な頭痛、耳痛、神経過敏を訴えている選手もいるという結果が出ています。また、男性に比べ女性の選手にいおいて重症化している割合が多いと報告されています。
トレーニング中の歯の食いしばりを意識的に避けることや、適切な休息を取ることが、顎関節への負担軽減に寄与する可能性があるとされています。

【出典】Grigoriadis et al., J Oral Rehabil (2013)
【出典】Frequency and Severity of Temporomandibular…
その違和感、進行するとこうなる
- 口が大きく開かない(縦に指2本以下)
- 顎を開けると痛い・音がする
- 朝起きると顎が重い、こわばっている
- 顎だけでなく、首・肩・頭が重い
これらはすべて、顎関節症の症状である可能性があります。スポーツをしている若年層でも、無視して放置しているとある日突然、口が開かなくなるというケースもあります。
まとめ:顎の役割を甘く見ない、という新しいリテラシー
今回は「食べる」ための顎ではなく、「支える」「力を伝える」「集中を保つ」ための顎として機能を紹介していきました。身体と向き合うスポーツ愛好者・指導者・医療者こそ、歯や顎のコンディションを大切にし、悪いサインを見逃さないようにすることは、「健康的な食生活を続けていく事」とともに「好きなスポーツを長く続けていく事」「高いパフォーマンスを維持し続ける事」にもつながっていきます。

【後編】では、そんな問題に対する対処法、そもそも問題が起こらないようにするための予防法について解説していきます。

青山通り歯科 院長
2008年に日本歯科大学を卒業後、数々の臨床経験を積み、現在は青山通り歯科の院長として患者様に寄り添う治療を提供しています。最新のデジタル技術を活用し、審美歯科から予防歯科まで幅広い診療を行うことで、多くの患者様の信頼を得ています。
また、ウェディングや建築、アーティストのポートレート撮影を中心とするプロカメラマンとしても活動しています。
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